面接に落ちた。
より具体的に言うならば、就活面接の二次面接。とあるIT関連のベンチャーで、Webエンジニア志望だった。
とてもよさげな企業だったので純粋に悔しかったのだが、落ちたのなら仕方ない。今やらなくてはいけないのは、何が足りなかったのかを考察することである。
その答えはかなりはっきりしていた。ずばり、「エンジニア志望の動機」が弱いことだ。
正直言えば、Webエンジニアを就職先の一つとして選んだのは、「この職業ならくいっぱぐれることはないだろ」という安易な考え。大学も理系じゃないし、プログラミングも基礎しかやってない(研究の関係でこれから勉強することになりそう)
面接では、「人を笑顔にできるものを作りたい」と、思ってもないことを言っていたけど、今にして考えてみれば「それWebエンジニアじゃなくてもよくない?」と言われそうである。
うむ。確かにそうである。じゃあなぜWebエンジニアになろうと思ったのか?プログラミングなんて一見難しそうだし、やめといた方がいいんじゃない?
――いや、プログラミングは本当に基礎しかしていないけど、面白いなと感じたのは確かだろう。それがきっかけではないというのは違う気がする。
じゃあ、なんでプログラミングが面白いと感じたのだろうか?あんな小難しそうなことが楽しく感じることある?
うーむ、これはちょっと悩む。楽しいと感じたのは確かなんだけど、何に対して楽しいと感じたのだろうか。わからないことばかりで、正しく動作させるために何度も確認して、コードを書き直していただけだし……その時間は間違いなく苦痛である。
じゃあ、コードを書くこと自体は楽しくないわけだ。それなら、プログラムがうまく動いたとき?
あー、それは確かに嬉しかったし、楽しかったな。特に時間かけて悩んだときはうまく動けば嬉しかったものだ。じゃあ、プログラミングで楽しいと感じたのは、「苦労して書いたコードがうまく動いたとき」か。
それなら、納得がいく。どうすれば成功かなんてのも、きちんと動けば成功なのであり、とても単純明快。しかも、成功のための過程は問われないわけだ。そう言い換えると、自分がそれを楽しいと思ったことがよくわかる。
僕は高校受験も大学受験も過程は酷いものだった。学校にも週2くらいでしか行ってなった。親に迷惑もたくさんかけた。けどそのどちらも第一志望に合格できた。
周りの人は、それを褒めてくれたけど。その言葉には「一時はどうなるかと思ったけれど」とか「本当に受かるとは思ってなかった」なんて言われて過程もきっちり評価された。
それが嫌だった。けどプログラミングはきれいでわかりやすいコードならその過程は特に何も言われない……と思う。(仕事としてやるなら違うのかもしれないけど)
そう、結果善ければよいのだ。それで気持ちよくなって終わり。
その点、今回の面接はダメだった。結局落ちたわけだから気持ちよくないし、「行きたいな」と思っていたから純粋に悔しい。
そう改めて思ったときに、ふと気づいた。
――悔しいと感じるのはいつぶりだろうか?
もう長い間、僕は「悔しい」という感情を感じていなかった気がする。「妬ましい」「つらい」「死にたい」……そう思うことは数あれど、「悔しい」と感じたのは下手したら数年ぶりレベルなのでは?
そう、僕は長い間勝負を、勝ち負けが明確に決まるようなことをしてこなかった。勝敗のつくゲームをやったとしても「いやでもこのゲーム下手だからなぁ」と保険をかけてやっていた。そりゃ悔しくないわけだ。メンタルが最初から敗北を受け入れている。
そんな風になった原因は明確だろう。「負けたくなかった」からである。勝つことの気持ちよさよりも、負けることの「悔しさ、みじめさ」を避けたのである。
そりゃ人生に対して無気力になるわけだ。勝負事に挑むつもりがないなら、人生には山がない。平坦な人生の何が楽しいのだろうか?刺激がないと感情は揺れ動かないだろう。
中学生の頃の自分と今の自分を比べると、なるほどまぁ……無気力が明確ににじみ出ている。根底にある屈折した自己愛や、虚栄心は一緒なのに、心の外側があからさまに違う。
その理由はおそらく「負けたくない<勝ちたい」が「勝ちたい<負けたくない」になってしまったからだと思う。無論、それだけであると断定することはできないが。
「勝ちたい」と「負けたくない」は似ているようで明確に違う。勝ちたいなら勝負しなくちゃならないが、負けないことは勝負から逃げれば出来てしまうのだ。
だからこそ、僕は昔に比べ、無気力でつまらない人間になってしまったのかもしれない。
でもまぁ、それでも生きるしかないのだからできるだけ「勝ちたい」と思って生きることにしよう。
このことに気づかせてくれた面接は落ちたけれども、大いに意味があったと思う。
んー、でも悔しいなぁ。