lothar’s diary

社会人1年目のSE雑記ブログ。毎日20時更新

客観的価値が生じる瞬間

僕は趣味でYouTubeで配信を時たま行っている。内容はモンハンの縛りプレイで……まぁ大半の人にとっては魅力的とは感じないだろうものだ。変わり映えのしない周回プレイを流しながら、ついたコメントに対して話しているだけである。

 

こんな内容なのにも関わらず、最近は見にきてくれる人が2桁はいる。結構コメントもついていて、常連さんみたいな方も出来てきた。いや、ほんと変わり映えのしない画面だし、毎回ゲリラでやっているのに見にきてくれて有り難い限りだなぁ、と日々感謝している。

 

しかもそれだけではなく、時たま飛んでくるんですよ。スパチャ(投げ銭)が。「頑張ってください」みたいなメッセージ込みで。「えぇ?!こげな配信にお金落とすの勿体無くないですか?ありがとうございます」と毎回恐縮しながら受け取っている。

 

正直言うと僕は普通に仕事している社会人だし、YouTubeはマジに趣味なので収益が発生しなくてもそこまで困らない。僕にとって、スパチャという行為には金銭を貰う以上の意味がある。

受け取って初めて感じたことなんだけど、僕の配信にスパチャするということは、それ即ち「あなたのコンテンツにはお金を落とす価値がある」という主張になりえるのだ。僕が同じ配信見たとしても絶対スパチャしないけど、してくれる人が実際にいる。その人にとって、僕のやっていることは「価値のあるコンテンツ」なのだ。

 

つまりスパチャとは、分かりやすく「価値が生じる瞬間」なのである。しかもそれは主観的ではなく、客観的なもの。主観的な価値は視聴されている時点で着く訳だけど、客観的なものはなかなか……しかしスパチャ投げられることで、それがわかりやすく提示されるのだ。これが嬉しかった。

金もらえることより、金を落とす価値があると判断されること。それがたまらなく嬉しかった。多分同人誌売ってる人とかが感じる喜びに近いもの何だろう。なるほどこれは他には変え難い喜びだ。下手な社会の仕事より、ダイレクトに他人のつける価値が伝わる。

 

あとこれの特に嬉しい点は、「僕自身はお金落とすほどのコンテンツだと思ってない所だ」。僕が勝手に無価値と思っていたものに、「ちゃんと金銭的価値もあるよ」と伝える行動な訳だからね。嬉しくないわけがない。

 

くれぐれも勘違いされたくないのは、スパチャのような金銭が発生する行為以外は価値がないという意味ではないこと。コメントや視聴だけでも嬉しいのだ。出した動画についたコメントとか毎回ニヤニヤしながら見てる。

ただそこに金銭という客観的な価値が付与されるのは主観的なそれとは違う嬉しさがあるものなんだな、と最近思ったのでした。