lothar’s diary

社会人3年目のSE雑記ブログ。毎日20時更新

生存理由を他人に依存出来なかった

 

僕の生きる上での目的は「楽しむこと」である。これを定めて自分に課したのは高校生の頃だ。今思えば自分勝手でエゴイズム丸出しの目的であるが、僕はこれを拠り所にして生きている。

 

ある時……確かコンビニに向かう道中にふと思った。僕はなぜここまで自分本位の生きる目的を選んだのだろうか?過去の僕は何を思って自分が楽しむことを人生の目的としたのだろう?

世の中には他人のために生きてるという人も多い。事実僕の父は、家庭を守るために働いていると明言していた。身近にそんな人がいるのだ。誰かのためというのは生きる目的としてそれなりメジャーなのではないかと思う。

 

じゃあなんで自分はそれを選択しなかったのか?過去を思い出したり昔の記事を見たりして、出た結論は「他人を理由にすると、他人を理由にして死にそうになる」だった。

実を言うと、高校のメンタル的にだいぶやられていた時期に他人を理由に生きようとしたことがある。僕が死んだら悲しむ人がいる間は死なずに人生頑張ろう!と心に決めて、それを糧に頑張っていた時期があるのだ。

ただこの思考は1年と続かなかった。

生きるのが辛い状況って往々にして周囲に迷惑や心配をかけるんすよ。当時の自分もそうで、周囲の……大人に迷惑と心配を撒き散らしてた。そんな日々の中である時思ってしまったのです。

 

「僕が生き続ける間、他人にかけてしまう心配や迷惑と今僕が死ぬ事で与えてしまう悲しみ……総量はどちらの方が大きい?もし死ぬ悲しみの方が少ないなら……他人の為に死ぬべきでは?」

 

ーー他人のために生きようとしていたことが、他人のために死ぬに反転してしまった。今思えば、かなりのメンヘラである。

んでもメンヘラであるが故に、そんな杞憂を思いついてしまった時点でそれはドンドンと大きくなる。周りがそんなこと全く思ってなくても、そのことを理解していても、主観が曲解する。

 

僕は死にたくなくて他人に生きる目的を移譲しようとしていた。だがこのままでは他人を死の理由に使ってしまう。それは避けなくちゃいけない。ありもしない他人の声で死にたくない。故に僕は生存理由を他人に依存出来なくなった。

 

ーー色々思い出して、あ〜そんなこともあったなぁという気持ちになる。今だからそんな緩い気持ちで回想出来るけど、当時の苦痛はまだ右手首に残っている。

そんな特に理由もない、自分の生きる目的への回顧でした。未だに自分を理由にしか生きられないのだから、この先も他人を理由に生きることは出来ないのかもしれないね。