肯定には責任が伴う
「オタクはすぐ否定から入る」
友達と雑談している時にそんな話になった。20代も半ばの男性が集まって、結婚やら彼女やらの話をしていた時に出たワードだ。これには「自分たちはオタクであり、それを治さないと結婚はおろか彼女すら作れないのでは?」という自虐が入っている。
その証拠にまず返ってきたアンサーは「いや、そんなことはない」だった。
ーー否定されるのってキツいし、そりゃ肯定ばっかりしてくれる方が嬉しいよね。やっぱ全肯定彼氏になるしかないんしゃない?
ーーでも相手のことを大切に思うからこそ全肯定って良くないと思うんだよな。大事だからこそ悪いところは指摘しないと。
ーーまぁ〜気持ちは分かる。でも俺らも全肯定されたくね?
ーーされてぇ〜!全肯定してくれる彼女欲しいよ!
ーーじゃあ女性側もまた然りだよなぁ。
……という何の役にも立たない雑談を繰り返していた。ただ、否定ではなく肯定することは大事なのだろうと思う。これは恋愛以前の話で、例えばイヤな上司の典型として、まず否定してくる。褒められることはない。っていうのがある。つまり、これは恋愛だけの話じゃないのだ。人生そのものの話と拡大解釈できる。
じゃあ否定を止めよう。一旦ここでの会話は全肯定にしよう。そうやって否定なしコミュニケーションをやってみると、これが案外難しい。本当にそうか……?と言えないのは議論が広がらないんだな。
「否定するなって!」と注意をしようものなら、それも否定じゃない?となるわけである。否定の否定?これ実質肯定では?……なんて。もうよく分からなくなってくる。
そんなお巫山戯が一段落して、誰かが言った。
「肯定するって責任伴うもんな」
ーーあぁ、確かにそうだな。と僕は強く思った。
まぁ否定に全く責任が生じないかと言うと、そうでは無いと思うけど……肯定は即時に責任が生じるように思う。
より強く言えば、その人がやってる事が正しいと表明することである。それがもし正しくなかったら「お前が肯定してくれたからやったのに、全然ダメだったじゃないか!」と言われかねないのである。否定してやらなかった場合は「お前が言ったからやらなかったのに……!」とはなりにくい。
だから肯定は難しい。否定の方が簡単だから、なんも考えないとスグに否定から入ってしまう……のかもしれない。
責任を伴う肯定を、簡単にすることが出来るのか……?僕は責任のラインを見極めた肯定しか出来ないだろう。「その心意気はいいと思うよ」みたいな、毒にも薬にもならない肯定しかきっと出来ない。
もう少し自己肯定感があれば、無責任に人を肯定することが出来るのだろうか?「肯定する責任」って台詞は、そんな風に自分に対しての否定が高まる一言だった。