先日、ライブに行って初めて生で見たReoNaはマイクパフォーマンスでよく「絶望」という言葉を使っていた。自身のことを「絶望系アニソンシンガー」と呼称していた。
日常の中の、誰もがスルーしてテーマにもしないような小さな絶望に寄り添ったお歌を歌いたい……そんな気持ちからの言葉だそうである。この信条は素直に素晴らしいと思ったし、それを体現出来てるんじゃないかな?と外様目線でも感じた。彼女の使う「絶望」にはキチンと意味がある。適当に使っている訳では無いことは何となく伝わった。
しかしである。
僕はマイクパフォーマンスで「絶望」という単語を聞いた瞬間に頬が強ばるのを感じた。その単語に拒否反応を示した。最後まで聞いたからこそ、彼女の使うそれは順当だ、と判断したけど……これがYoutubeの動画であれば、その場でブラウザバックしていただろう。それくらいにその単語を聞くのが嫌だった。
僕は今まで自分が「絶望」という単語に対して、自分がそんな反応を返すとは予想もしていなかった。その言葉を聞いてよくよく思い返してみると、しばらく「絶望」を聞いた覚えがない。せいぜいが「さよなら絶望先生」くらいだろうか。僕自身もしばらく発話していなかったんじゃないかな。
ライブが終わった後、1人の帰り道でそのことを思い返す。「絶望」。今思い返しても苦虫を噛み潰したような気分になる。出来れば使っているのを見聞きしたくない単語だ。
いつからなのか全然自覚がないけれど、僕は絶望を忌避するようになっていたらしい。思い返すと恐らく、「絶望」が代表するような強いマイナスの言葉全般に対してこの反応がありそうな気がする。自覚していなかったせいで「気がする」ベースになってしまうけど……うん、恐らくそう。
何度もこのブログで書いていることだけど、僕の信条は「楽しむこと」だ。「人生に楽しいことがなくなったら潔く死ぬ」と心に決めて生きている。死にたくないから楽しいことを常に探している。
そんなことを信条とするうちに、楽しくないに繋がりかねない言葉を避けるようになっていたのではなかろうか?他人の負の感情というのは簡単に僕に伝播してくる。それを避ける手段のひとつが、先程のライブであった「拒否反応」なのかもしれない。無自覚ではあるけど……
いつの間にか僕は自分の信条を大切にするあまり、人の不幸に寄り添えない人間になっていたのかもしれない。だからといって死にたくないので簡単に信条は変えられない。
……とりあえず自覚があるだけまだマシ、と思うことにしよう。