僕は空が好きだ。
朝焼けの空もいいし、真夏の入道雲は夏には似合わない感傷に僕を浸らせる。冬の寒空は自販機で買ったココアを飲みながら眺めるには極上の素材。春の桜散る空は、新生活への期待と不安を連想させる。
一言に空と言っても、様々な顔がある。そのどれもが綺麗とまでは言わないが、人の生活に欠かせない性質上、そこに思いをはせることは多いだろう。
そんな中で僕が一番好きな空は、10月の雲一つない晴天だ。特に昼過ぎのものが素晴らしい。流れる空気は遅く、涼しく、心地よく。人の営みを感じさせる生活音も相まって優雅な午後のイメージを僕に与える。似たような空に梅雨明けの空もある。
この空を見るには、騒がしい町は似合わない。かといって他の家もない田舎も違う。田舎に合うのは入道雲。都会に合うのは曇天。
ならどこがよいのか?その中間だ。田舎と都会の間。都会に通勤する人々の住む昼間には仕事人は家を空ける土地。ここで見るのが一番よい。
だがこれが団地となると、少し変わってくる。団地という空間が僕にもたらすのは人々の生活の活気だ。それとのどやかな10月のそれは少し似合わない。団地には夕暮れだと勝手に思っている。
住宅街から見る10月の空。しかも何もない晴天。これが一番好きだ。俗っぽく言うならエモい。これに尽きるのかもしれない。
しかも幸運なことに、現在僕が住んでいるのはそのような住宅街だ。かつオンライン授業の発展した時代の大学生であるゆえに、昼間に家にいることも多い。
僕はそんな時間に、部屋の窓を開けて空を見る。住宅街から切り取った青い空。風の声とカラスの歌、揺れるカーテン。通り抜けていく車。井戸端会議に花を咲かす主婦。
そのような音に対してただただそこにある青の空。人の営みと自然の雄大さがちょうどよく混ぜあった場になる。
綺麗で儚くも、悠久に感じる時間。そんな場において、僕は適切じゃないなと、毎度のことながら思う。なにも美しくなく、かといって腐っているわけでもなく、ただ漫然と日々を過ごす一人。それを他人として観測するなら美しく感じるはずなのに、そこに主観が入るだけで途端にふさわしくなくなる。
自己否定と他に対する羨望がないまぜになって、自分だけがふさわしくないと思ってしまう。そうでないことを理解していても、直感がそう告げるので仕方ない。
そんな自分まで儚くも美しい人の営みの一環と思えた時には、世界のすべてが美しく見えるのかもしれない。
――ただし花粉、てめーはダメだ。