lothar’s diary

社会人1年目のSE雑記ブログ。毎日20時更新

カップラーメンを記事にする人生

ある日友達を話をしていた時に、僕のブログの話になった。

彼は僕がブログを毎日更新していることを褒めてくれた。ただ僕は素直に称賛を受け取ることが恥ずかしくて「ネタがなくなったら毎日は更新しなくなるよ」と答えた。

でも、そうは言ってもブログのネタなんていくらでもある。同じようにブログを書いている人なら分かるかもしれないけど、書き続けているとどんなしょうもないことでも記事として書けるようになる。そりゃいい記事ではないかもだけど、とりあえず形にすることは出来る。

 

「この間買いだめしたカップラーメンの記事でも書けば、それで一週間分にはなるんだけどね」

 

そんなことを言ったのを覚えている。また、こう言ったことも覚えている。

 

「でもさ、そんなの記事にしてたら、『僕の人生はカップラーメンを記事にするくらい内容のない人生ですよ』って言ってるみたいでいやじゃない?」

 

――別にこれは、カップラーメンのことを記事にしている人を見下している訳じゃない。っていうか、僕も昔にやってるかもしれないし。

こんな発言をしたのは、今の僕がブログを更新する理由に起因している。

僕が今ブログを更新しているのは、誰でもない自分のためだ。

 

こうして記事を書いて記録していくことで、そのときの感情や記憶を後から見返せる。あの時の僕はそんなこと思ってたんだ、と自分を顧みることができる。最大の目的はそれであるので、基本的に少しでも自分が思考したり、心が動いたことしか内容にしていない。

それを他人が見て楽しんでくれるなら、続けるモチベーションにもなるかな、と思って公開しているだけである。

つまり、ここにある文章は、誰かが読むことを考慮していない、自慰行為のような文章なのだ。

 

そんなブログであるから、興味のないことをわざわざ記事にするのは『自分の興奮しないジャンルで自慰行為をするようなもの』だ。

だから僕は「カップラーメンを記事にするのは薄っぺらい人生の証明」みたいなことを言った。

 

……んだけど、その言葉自体はとても美しいな、と思うわけだ。

そんな薄っぺらい内容でも、それを発信していることは、自分が生きているとインターネットの誰かに微かに主張するようで、その行為自体に味があると思う。日常故の美しさを体現したかのような文だと思う。

 

カップラーメンを記事にする人生」

というフレーズには、そんな魅力があると思う。

この一文から誰かの人生をイメージできてしまう。

 

――僕の好きな歌の一つにこんなフレーズがある。

「馬鹿な愛しさで アイスクリイム並みの幸せで」

 

n-bunaさんの「月を歩いている」というアルバムにある「ルラ」の一節だ。

このフレーズには、さっきのものと同じ美しさがある。この場合は曲全体から「低能な自分には、低いレベルの幸せがお似合いで、自分もそれを受け入れているけど、そこから抜け出せることを夢見てしまう」みたいな感情が聞き取れる。

僕がそういうのに美しさを感じる性分だから、カップラーメンなんてフレーズに美しさを感じるんだろう。なんてしょうもない。自己完結で自分勝手な感性の話である。

 

――ああ、でも、その感性を未来の自分が思い出せるように、こうして記事にしているのだ。