昔ながらの友人たちと雑談をしていた時、その一人がこのようなことを言った。
「俺お前のブログ結構読んでるよ。多分1年分くらいは読んでる」
そう言って彼はつらつらと、「あの記事が面白かった」と話し始めた。
彼が挙げた記事はマジで1年前くらいの記事で「あほんとにすごい読んでんね」なんて思った。そんなに読んでるなんて思わなかったから結構驚いた。
そこで興味深かったのが、彼が面白いと挙げた記事の種類だ。色々言っていたので要約すると「僕の思考が出ている記事が面白い」らしい。より具体的に言えばこのブログのカテゴリ「思索」が付いている記事だ。
正直この発言は意外だった。僕のブログはかなりの割合で自己満で書かれているのだけど、「思索」カテゴリの記事は特にその気が強い。そんな自分勝手な記事なので、それを面白いと言われるとは思わなかった。
閲覧数的には音楽かラーメンの話が面白いと思われているのかな?と思っていたのだけど、その友人にとってはそっちより僕の自己満の方が面白かったそう。
――さて、友人たちとの話が終わって寝る前。僕は彼の発言について考えていた。
なぜ「思索」が面白いと言われたのだろうか?ただの自己満であるのにも関わらず、彼はそこを面白いと評価した。……それは何故だろうか?
布団の中でいろいろ考えたけど、結局僕の中身が出ていたからじゃないかという結論に至った。
「思索」カテゴリ以外の記事は僕の外側由来の記事である。こういうことがありました!ここ行きました!あれが楽しかったです!っていう何かしらを体験したor見聞きした内容がほとんどだ。
僕の過去や思考のベースの話をしているのはおそらく「思索」だけ。そこが他の記事との違いかな?なんて。
そんな僕の中身を覗き見ることが、面白いと感じられる要素なんじゃないか?……なんて思った。
「思索」カテゴリの記事は僕の心の構成要素を垣間見るような内容が多い。つまり今の僕を形作る要素をかみ砕いて話している。だからこそ、僕に興味のある人間にとっては面白いものになるのかもしれない。
逆に言えば僕に興味ない人間にとっては非常につまらないものになってしまうのかもしれないが……いや、そうとも限らないか。僕に興味なくともその構成要素自体に興味がある人もいるだろう。
まぁ結論として、「思索が僕をつくる」から僕のことを知っていたり、興味のある人間にとっては「思索」カテゴリの記事が面白いんだろう。
それにプラスして、その友人は高校からの付き合いになるから結構長いし、僕の思い返した過去でリアルタイムに関わっていた相手だ。そんな彼だからこそ「あの時こう思ってたんだ」みたいな発見があって楽しかったんじゃないか、なんて思う。