lothar’s diary

社会人1年目のSE雑記ブログ。毎日20時更新

存在理由なんてない方がいいって

「私の存在理由は、生きる意味はなんなんだろうか?」

 

多くの人が生きる上で悩む問題のひとつと言えよう。かくいう僕も高校時代にはかなり悩んだものだ。うーん、いや……悩まないとやってらんなかったってのが正解かもしれない。

だいたいさ、こんなこと考える時なんて十中八九疲れてる時か鬱気味の時なのよ。楽しい気分の時に、「あーなんで生きとんのやろ。なんのために今息しとるんやろ」なんて思わんやろ。そんなこと考えてる時点でまぁ大抵の場合いい思いはしとらんやろ。

 

だからそんなのない方がいい。考えない方がいい。存在理由なんて、思考する余地すらない方がいい。

……と僕は思うのだけど、そうは言ってもつい考えて、ネガティブになってしまうのが人間というものだろう。

僕も考えに考えて、もう自分の中には存在理由なんてないと答えが出ているのに、たまにそんな思考に陥ってしまう。

 

高校の時は、もー毎日辛くて、自分が何とか学校行って社会生活を行うための理由が欲しくて、存在理由を考えていた。

色々考えた末に、当時の僕が行き着いたのは「周りの人間のために生きよう」だった。幸いなことに僕が死んでしまえば悲しむ人間が存在する。ならまぁそんな人がいる間は生きようじゃないか、と。そんな人が1人もいなくなったら死んじまえばいい。そういう風に自分の存在理由を決めつけて、何とか毎日頑張ってた。

ちょっとひねくれた言い方すれば、生きる理由を他人に依存してた。僕はそうやって理由を委託できる人間がいるだけ幸福なのだ、とそういいきかせて頑張っていた。

 

あー、今思うと「そこまで大変やったんやねー」と他人事みたいに思えるのだけど。っていうか今の僕なら存在理由をそんなとこに見出さないけど。

他人に存在理由を委託するのは、簡単なようで難しい。その他人が僕を同じように思うとは限らないし、そう思っていてもその思い故に、こっちが辛い思いをすることもある。それでも相互理解して、互いを互いの生きる理由とした関係を夫婦というのだと僕は思う。素直に凄い。今の僕にはできる気がしない。

 

相互理解して、相互依存。うーん美しい人間関係。でも、そうやって存在理由にした他人がいなくなった時に、その人たちはどうするのだろう。

また誰かに理由を見出すのだろうか?それとももう心を閉ざしてしまうのか?どちらにしろ悲しかったり、苦しかったりするだろうことは容易く想像できる。

それなら最初から人に存在理由を委託しない方がいい。いっそそんなものを考える余地がないくらいがいい、と僕は思ったりした。

 

まぁ、自己の中に存在理由を見いだせるならそんなの全部関係ないけど。