「自分の感情とかさ、できるだけ言葉に落とし込みたくないんだ」
ドライブしてる時に先輩はそんなふうなことを宣った。先輩が悲壮感溢れる自論をセンチメンタルに語るのはいつもの事なので、またいつものやつが始まった、と思いながら僕は話を聞いた。
「なんでですか?」
「なんか言葉にするとさ、それ以上にならないというか、そもそも言葉にできないというか。嫌なんだよな、人にわかったように言われるの」
これは僕がいつも先輩の自論に正論パンチするからそのことを皮肉ったセリフだろう。
「あー、分かりますよ!なんか言葉にできちゃったら自分の感情が一般化されてしまうというか……自分だけの感情と思っていたものが言葉にしてみたらその辺にあるものと変わらなくってしまうって感じですよね!」
「あー。そんな感じ」
どうやらそういう感じらしい。なるほど、詩的でいい事言うじゃないですか。この先輩は基本的に気持ち悪い感傷に耽ったことしか言わないけど、偶にいいこと言うのだ。多分今回はそれ。
「だから自分のこととか全部言葉にしたくないんだよ」
「ま、先輩の心理は僕が言葉にしちゃいますからね」
「お互いにな」
あー出たいつもの気持ち悪い返し。私たち分かりあってるね感をこれでもかと出してくる感じ。僕はそうは思わないですけどね、って言おうと思ったけど、それは流石に可哀想なので止めた。言葉のナイフでいじめるのはラインを見極めないといけないのだ。
そんで訪れる沈黙。先輩が運転してる横で僕はスマホをいじりながら考える。
まーそうは言っても僕は普段からこのブログで自分を言葉にしている。たしかにそれは自分の感情とか思いを、誰にでもわかる形に変換している作業かもしれない。でもそれはぐちゃぐちゃの感情を整理する作業でもあると思う。個人的には言葉に出来ないのは言葉にしてないからだと思うし、そもそも大抵の感情は誰もが持ってるもので自分だけの特別なものでは無い。多分先輩はそれをわかった上で特別と思いたいから言葉にしないんだと思う。それでいいと思うし、僕もそうしてる部分はある。
でも、言葉にしないと忘れるのだ。自分の過去のぐちゃぐちゃな内容物は気がつけば消化されてしまうのだ。何食べたか記録してないと、ぐちゃぐちゃな中身すら思い出せなくなるのだ。だからこそ例えチープで安易で、誰にでもわかるモノにしてしまうとしても僕は言葉を紡ぐのは大切だと思う。言葉に出来ないものを忘れないように、言葉に変えて残しておくのだ。