lothar’s diary

社会人1年目のSE雑記ブログ。毎日20時更新

見送る側。見送られる側。

四月が出会いの季節だとするならば、三月は別れの季節だ。出会いには別れがつきものであり、それは表裏一体である。

「別れ」と言えば、どこを想像するだろうか?卒業式?桜咲く学校?

僕も最初に思い浮かぶのはそれなんだけど、残念なことに今年、僕は大学の卒業式に顔を出していない。別にこれは卒業式に出れないほど陰キャというわけではなく、スケジュールが合わなかっただけだ。……いや、たぶん実際に卒業式に行っていたら多少浮いてただろうけど……仲いいやつ卒業できないのばっかりだし。

 

それは置いといて、じゃあ三月に福岡から関東に大移動した僕がどこで最も別れを経験したかというと、「空港」である。いや、数としては飲み屋の前が一番多いかもしれないけど、それってなんか別れって感じしないのよね。

 

lothardiary.hateblo.jp

 

これは見送ってもらったときの記事。「おセンチなのが嫌」と言いながらちょっとおセンチになりかけている。今読み返すと恥ずかしくなるタイプの記事だ。

そんでこれは本当偶々なんだけど、三月の終わり。僕は逆に友人を空港で見送る側になった。

 

一緒にご飯食べてお土産選んで、手荷物検査場の前でバイバイ。ぶっちゃけ今の時代、距離が離れたとしても今生の別れになるわけでもない。……んだけど、その雰囲気がダメなんだろうね。どーしても、こう……感傷的になってしまう。

 

見送りも、見送られも経験して、改めて思うのは「意外と悪くないかな」ってこと。基本的に別れの寂しさってのはついてくるけど、同時に別れのもたらす儚くも美しいセンチメンタルも感じられる。

これを僕みたいにきちんと言葉にして表出しようとすると、それは途端にチープで誰にでも当てはまるものになってしまう。けど、それをあえて言葉にせず、外に出さず、ごちゃごちゃしたいろいろ混じりあった感情のまま受け入れることで、それは僕だけの特別な感情でいられる。人に共有しなければそれは、僕だけの感情だ。

それを味わえるのは悪くないな、と。そう思うわけである。だからってどうでもいい相手に対してそんな感情は湧かないし、じゃんじゃか別れまくればそれを感じまくれるわけでもないけど。

 

――こんな風に色んな思いを感じて、飲み下して、人間は大人になっていくのだろう。だからこれも大事な経験ってやつなんだろな。

 

なんて、思ったりするわけである。

こうして語ってはいるけど、未だに飲み下せない別れもあるにはあるんですけどね。それがあるのは僕がまだ大人になり切れてなくて、幼い我儘を残したままである証拠なのかもしれない。