以前自分のブログを見返していた時、この記事が目についた。
数か月前の自分の記事である。要約すると一般的な寂しさとは別に「身体的な寂しさ」ってあるよねって話。触れ合いたいとか抱き合いたいとか、そういうことを求める寂しさ。
それをいかにも寂寥の一つかのように語っている記事である。
あれからしばらく経った僕が思うに、それはシンプル「性欲」由来である。
寂しさという形でアウトプットされてはいるけど、根本なんなのかって突き詰めると性欲になると思うのよね。んでも勘違いしないで欲しいのは、射精を目的とした性欲じゃないこと。
いきなり下の話をするのは少し抵抗感があるが、個人的には男性の性欲は射精を目的とするものとそうではないものがあるように感じている。
射精を伴うものは一般的な性欲とでも言おうか……いわゆる三大欲求としての性欲をイメージしてほしい。
もう片方が今回の話のタネである身体的な寂しさのことを指すのではないか……なんて今の僕は思うわけだ。
ボノボという哺乳類がいる。彼らはよく「平和的なサル」と称される。というのもチンパンジーのような闘争を行うこともなく、子殺しなどもっての外、そんな平和的な生態が確認されているからだ。
彼らがなぜそれほどまでに平和的なのか。その秘密は性行動にある。
彼らは雌雄間はもちろん、同性同士、子供でさえ、それを行う。
互いの性器をこすりつけたり、馬乗りになってマウンティングするそう。それが行われるのは彼らがストレスを感じた時なのだそうだ。
「新世界より」という小説を中学生の時に読んだのだけど、そこにそのようなことが書かれていたことを思い出した。
それを自分の感情と結び付けて考えるわけである。つまり僕の感じている身体的な寂しさとは「ボノボのそれ」と同質のものなのではないか?と。
なんて思いながら過ごしていた8月ごろ。それを確信づける出来事が起こる。
改めて言うのは少し恥ずかしいが性行為をした。他人と。
その時に身体的な寂しさがすっと薄まっていった。僕はそれで寂しさの原因は性欲だろうと結論付けた。
ちなみにこの時は射精していない。それでも満たされたことで、性欲ではあれど一般的なものとは違うのだろうと、そう思ったわけだ。
自分で感じていることとはいえ、改めて書くと自分が本能的に生きている動物であることを再確認されられて気持ち悪くなるね。動物的本能にいかにもな理由をこじつけて、それっぽいエモーショナルに変えて受け入れようとしていたところとか、気持ち悪いことこの上ない。
気持ち悪くて仕方ないけど、そうやってこねくり回して自分と周囲の気持ち悪さを受容したり、逆に綺麗な部分を汚くして見せたりするのが自分なのだろうと、そう受け入れるしかない。
そんでそんな気持ち悪い思索の結果をこれからも、ここに吐き出し続けるのだろう。