lothar’s diary

社会人1年目のSE雑記ブログ。毎日20時更新

環境が変われば普通も変わる

上京してから早8か月、年末年始の休みを利用して実家に帰ってきた。

僕ってやつは自分の思っていたよりは友好関係ってものがあったようで、年末は忘年会で埋まっていた。各所で旧友たちと杯を傾け、過去と未来の混じった今の話をする。

それはそれで楽しいのだけど、数か所で、何人もの人間と会話するうちに見える普通がある。

 

中学の友人たちとの忘年会。その際に際どく感じた「自分が異質」という感覚。いや、その場で異質だったのはおそらく僕だけじゃない。もう一人大学からオーストラリアに行ったやつがいるんだけど、そいつもたぶん異質だった。

ただ彼はその性格故、僕みたいに小難しくその異質をこねくり回すことはしないだろう。それはそれとして、純粋に楽しんでるだけだと思う。

 

彼と僕以外の集まってくれた友人たちはいわば「地元で就職した好青年」たちだ。高校は一応みんな卒業しているはずだけど、大学は行っている奴のほうが少数派。

そんな友人たちの普通が見て取れる。僕には通じない地元トーク。通じないノリ。僕を歓迎してくれてはいるが、それとは別に普通という名の暗黙の了解が常に存在している。

それで居心地悪くなるほどではないが、確かに微かにある。この場において、僕は異質で、彼らが普通。まじりあいお互いに楽しむことはできるけど、その背景は全然違う。

 

普段の僕の周りには、僕のように上京して就職する人間はごまんといる。というかそんな人間ばかりで僕は普通なのである。

だが、この場において上京しているのは僕だけである。いや、一人オーストラリアもいるけど。でもそれ以外は高校出て、地元で就職している。

 

どちらの道もオーストラリア以外は日本のどこにでもある人間の人生である。

でも、お互いが交わる機会ってそう多くないのだ。

もっと広い規模で考えればオーストラリア行ったのも何処にでもある人生かもしれない。でも、それは僕にとって普通じゃない、異質だ。僕が異質と感じるのはその行動をとった人間が周りにいない、日常に存在しないから。交わらないから。

 

環境が変われば普通も変わる。上京して社会人という日本のよくある人生も、環境によっては異質になる。

忘年会でのそんな実感を通して、僕は普通を語ることに恐怖を抱く。自分の普通ってのはちょっと視点が変われば共感できないもので、同様に誰かにとっての普通も僕にはわかりえないものだ。

 

属するコミュニティと関わる人間で簡単に変わるそれを、あたかも当たり前のように語る。周りもすべて同じなら、当たり前のように見えてしまうから。

でも一つコミュニティの外に出ればそれは異質かもしれないのだから、普通なんてないのかもしれない。それを理解していなければ普通を振りかざして、排斥、差別に自分が加担してしまうかもしれないと、そんな恐怖。

そして、固定観念と化した普通を、自らが異質な場でも振りかざして排斥だ、差別だと過剰に叫び散らすかもしれないことへの恐怖。

 

そんな普通の不安定さを感じた福岡の冬空でした。