「大人になる」というのは大概曖昧で抽象的な言葉である。いろんな定義があって、その人ごとにこれが大人になるってことの答えは変わる。っていうか明確な答えがない人の方が多いだろう。改めて言われて考えるみたいな。そんな人がほとんどだと思う。
あ、「成人したら」みたいな話じゃないよ。あくまで精神的な話。問答無用で「大人」というステータスが付与されるのとは別の話。精神的に大人ステータスになるためには何があるのかって話。
これに関して、僕は僕の中で明確な答えがある。それは「盲信しなくなること」だ。
ここまで生きてきて、これができるようになった……いや、出来るようにならざるを得なかったタイミングが一番精神性が変わった時だと感じているので、僕はそう思っている。
僕が「盲信できなくなった」のは高校の時だ。
それまでの僕は、両親の声を盲信し、周りの大人は自立していて、いつでも自分の力になってくれる……そう信じていた。
いや、信じていたとかじゃない。当たり前だ。生まれてこの方それが当たり前として生きてきて、大人の言ってることは大概正しい。怒られることがあっても、それは最終的には自分のためであり、自分は恵まれている、と。それを無料で当然のように感受できるものと思っていた。
高校の時、僕は半ば不登校になった。理由はシンプルに朝起きられなかったから。今では睡眠外来に通っているから問題ないが、当時の僕はそんなもの知らないし、周りからしたらだらけているようにしか見えてなかったと思う。
学校サボって叱られることもあったけど、それはトータル僕のために言っていると分かっていた。だから、仕方ない受け止める。でも起きらんないのは変わらないし、自分ではなんともならない。そんな相反する状況で、僕は歪んでいった。
ある時それがピークになって、自らを傷つけた。
僕はこれ以上は自分じゃどうしようもないと思って、そのことを親に告げた。それで心療内科通って、精神的には一時的に落ち着いた。
ーーと、ここまでが前日譚。僕が大人にならざるを得なかった出来事はここからである。
心療内科に通って数ヶ月、母が狂乱した。心療内科でもらう薬が一月で一万もして「高すぎる!」とキレた。売り言葉に買い言葉で「じゃあもう行かねーよ!」と言って通院を辞めた。もちろん不登校具合が悪化したのはいうまでもない。
さらには学校に行かないことを叱責もされた。どうしようもないと助けを乞うているはずなのに、今までと対応が変わらない。
ここまで来てようやく理解した。大人はいつも僕を助けてくれるわけじゃない。例え助けたいと思っていたとしても、その方法がなかったら対応を間違えたりする。
お陰で「大人に期待しないようになった」。彼らも自分と同様なので、できないことは出来ないと直感的に理解した。大人も自分と変わらないと自覚したのは最も大人になったタイミングなんじゃないかな、と思う。
なので僕にとって大人になるとは、大人がなんでもできるものではなく、自分と同じものであると理解して盲信しなくなること。だと思っている。