lothar’s diary

社会人1年目のSE雑記ブログ。毎日20時更新

時を越えて地元トークする

友達と旅行に行くことになった。そんでその予定を決める話し合いをしていたんだけど、友達の1人が僕を車で迎えに来てくれることになった。

迎えに来てくれるなら集合場所を決めねばなるまい。どこに集まろうかと話していると、面白いことがわかった。

 

今僕が住んでいるエリアはその友達が小中で住んでいたエリアにとても近く、お互いに土地勘が形成されていたのだ。

おかげでマンション前というありきたりすぎて、どこにでもある名詞で待ち合わせ場所を決定することが出来た。こんなに雑な待ち合わせ場所指定をしたのは、恐らく小学生以来だ。

だってうちから一番近いマンションのこと指してるからね?あまりにも特定地域すぎる。っていうかそれ以前もスーパーの名前で集合場所決めたり……どこにでもあるスーパーよ?それができるのはあまりにもローカルだよねぇ。

 

そのまま話は盛り上がり、場所を交えて友達の小中の時のことを聞いた。「ここで放課後遊んでた」って場所は自分もよく通る場所だったし、通っていた中学校はうちのすぐ側だった。

だいたい道の名前じゃなく、細い道とか大通りみたいな形容詞交じりの通称で会話が成り立つのがすごいよ。地元友達とのトークかよ。

 

--と、ここで思うのである。友達にとってはこれは紛れもない地元トークだ。なんにも間違ってない。

ただ不思議なのは、それを聞いているのは同じ時間、場所を共有した相手ではないこと。今現在その地元に新しく住んでいる自分、ということである。

よくあるシチュエーションなのかもしれないけど、同じ場所を別の時間で共有していることに僕は少し感動を覚えた。

 

--これとは別に、以前奇跡かよ、と思った出来事がある。それは去年の4月、福岡を出て関東に新卒で来た時のことだ。同じ会社の同期に地元が同じ、かつ自分が中学校で仲良くしてた友達の兄がいた。

地元同じなんてレベルじゃない。共通の知り合いが何人もいるレベルである。地元トークも「牛丼屋さん」で場所特定出来るくらいのレベルだった。

でも、この時は今のような感動は感じなかった。どちらかと言うと「えぇ、そんな偶然ある?」みたいな気持ち。

 

それで思ったのは、今覚えた感動は、時間の乖離があるのに同じ場所を語れることに起因するのかな、と。場所からその人の過去を覗き見るような、友達の知らない部分を探すような、そんな地元トークで本来感じないようなものがあったのかもしれない。

それが面白くて、なんか感動しちゃったのかな、なんて思いました。いいね、こういうの。